発達凸凹娘との日常

2017年度に小学校入学の娘がいます。2016年10月中旬にまさかの発達障害指摘!色々もがいてるなうでございます。

恵まれた障害者を見てつらいと思ったら

発達障害児と専門性を持った大人のマッチングとして

新たなサービスが展開したようだ。

このサービスについては、俄然興味ありありなので

また別途記事にしたい…できるかな。

 

今日書きたいと思ったことは、なないおさんのエントリーにまつわる話。

nanaio.hatenablog.com

 

ざっくり書くと、発達障害児であり数学に強い興味を持っているお子さんと

アクティブな活動を行っている東大生が、この素晴らしきインターネットの

世界で数学について語らったというお話。

 

これについての周囲の反応は大きく二通りにわかれる。

 

  1. 良い話で感動・こういうサポートこそ広まるべきという発達障害マジョリティ側
  2. 恵まれてよかったね・羨ましくてつらいという発達障害マイノリティ側

 

これ、正直どちらの意見もすごくわかるし、障害者の世界では

あるあるな話だなぁと思う。

 

私は先天性難聴なのだけど、その困難さ生きづらさについては

やはりどうしても健聴者には理解しづらい部分があると思う。

そんなときに、話のネタとか励ます意図とかで

耳が聞こえなくても活躍している人を話題にあげられたりする。

ヘレンケラーとか例えに出されたら最悪だ。

 

偉人の話は本当に素晴らしいし、そのかたの努力は賞賛に値するものだけど

その矛先を自分に向けないでいただきたいと思うことが多々あった。

同じ障害であっても、程度や環境の違いなどで

必要なサポートや障害に対する自己のスタンスはまるっきり違うのだ。

 

でも、だからこそ思う。

 

自分(または子供)は何を困難としているのか、

それは積極的に知ろうとし伝えようとしないと誰にも伝わらない。

 

人それぞれだから、という簡単な言葉で片付けてしまうと

少なくとも共通している必要なサポートだって受けられる機会を逃してしまうのだ。

 

「他人は他人・自分は自分」

これは本当にそうなんだけど、精神衛生状態がよろしくない時は

インターネットの多数の意見が世間一般の声という大きな槍となって

自分のつらい気持ちにグサグサと刺さってくる。

そして、どす黒い気持ちがふつふつと湧いてきてしまい

メディアが大好きなありとあらゆるのポジティブな話…もとい感動ポルノ

に対して恨めしく思ったり、うんざりしてしまったりする。

 

そんな時は、目をつむってしまうのが良い。

そして、自分が良い気持ちになれるもの(本だとか音楽だとかゲームだとか)

で心を休ませよう。

 

そして落ち着いたら、つらいつらい大きな槍が

自分を守る大きな盾になるように、ちょっと見方を変えてみる。

 

ポジティブに生きている(ように見える)

話はささくれ立った心に突き刺さって痛いかもしれないけれど

自分の代わりに、今、動ける元気な(ように見える)人が

発信してくれた気持ちが世の中に届いて、そこから派生した新たな

サービス・ムーブメントが巡り巡って自分を助けてくれるかもしれない。

 

ヘレンケラーを自分にもとめられるのは辛いけれど

聞こえないということはどういうことか、どういうサポートが

必要なのか、そういうことがマジョリティ側が知ることは

本当に大事なことなのだから。